消えた英雄たち、密かな胎動(1960‐62年)
1950年代末、初期ロックンロールのスターは、バディ・ホリーたちの事故だけでなく、ジェリー・リー・ルイスのスキャンダルやチャック・ベリーの逮捕、リトル・リチャードの宗教的引退などで次々と表舞台から姿を消していた。その空白を埋めるように、レコード会社はリスクを避け、安全で売れる“ティーン向けの曲”をプロデューサー主導で作っていた。
1960~61年のチャートを席巻したのは、デル・シャノンの「ランナウェイ」(1961)、シュレルズの「Will You Love Me Tomorrow」(※1960年当時は日本盤未発売)、マーヴェレッツの「Please Mr. Postman」(※1961年当時は日本盤未発売)といった曲だった。これらのティーンアイドルやガール・グループのヒットは、自作自演ではなくプロデューサーと作曲家によって管理され、歌唱も見た目も計算された“安全な熱狂”の象徴だった。
一方、西海岸では、ディック・デイルが波のリズムを音に変え、新しい音楽文化の息吹を感じさせていた。
こうしてアメリカでは、ロックンロールの英雄たちが去ったあと、その空白を埋めたのはティーンアイドルのポップソングやサーフ・ロックだった。 ある意味、それはロックンロールの終焉を思わせる“凪”の時代だった。しかし、海を隔てたイギリスでは、ロニー・ドネガンの軽快なスキッフルに熱中する若者たちによって、次世代の音楽シーンの基盤が少しずつ整いつつあった。
貨物船が行き交う港町リヴァプールで、この曲をラジオで聴いた十代の青年は「これなら俺にもできる」と思い、仲間とバンドを組んで演奏を始めていた。最初の頃は、ギターやバンジョー、洗濯板、木箱――あり合わせの道具で奏でる素朴な音楽だった。昼休みや放課後に校内の講堂や中庭で、友人たちの前で演奏する。そのアマチュアバンドは、やがて地元でちょっとした人気を集めるようになっていった。しかし、そのリーダーが、やがて世界を揺るがすバンドを結成することなど、まだ誰にも想像できなかった。