リヴァプールの小さな奇跡(1961‐62年)
アメリカのロックンロールの熱は、海を隔てたイギリスの若者たちの胸も熱く焦がしていた。とりわけ港町では、アメリカからの船便で最新のレコードが早く流れ込み、輸入盤の店や闇市のような小さな販売ルートを通じて、彼らはいち早く新しい音を手にしていた。
そんな港町のひとつリヴァプールにNEMSというレコード店があった。1961年のある日、店主のブライアン・エプスタインは、いつものように最新のポップスやジャズのレコードが並ぶ棚を整理していた。
その日、何人かの若者が「『マイ・ボニー』というレコードはありますか?」と訊いてきた。ドイツ盤のシングルで、あいにく店には置いておらず、最初のうちはあまり気に留めなかった。しかし、同様の客が数人続いたため、エプスタインは「マイ・ボニー」を演奏しているバンドに関心を抱いた。それは、地元リヴァプール出身の若者が結成したバンドだった。
当時に関する証言は曖昧で、店に来た客が何人だったのか正確にはわからない。都市伝説に過ぎないと言う人もいる。ただ、今でも語り草になるのは、もしも、その日「マイ・ボニー」を求める訪問者が、もうひとり少なかったら…エプスタインはビートルズというバンドに関心を抱くことなく、その後も街角のレコード店主として平凡な日常を過ごしていたかもしれない、という「If…」の物語だ。
実際、もしもそうなっていたら、ビートルズが世に出ることもなく、後の世界は少し違った景色になっていたかもしれない――この逸話が今でも多くのビートルズファン、ロックファンを惹きつけるのは、日常の片隅で生まれた小さな偶然が、やがて世界を揺るがす出来事へと連鎖していった…そんな歴史の不思議さ、奇跡を感じさせるからだろう。
当時のイギリスでは、アメリカのロックンロールやリズム&ブルースが若者文化に広がり始めていた。しかし、映画やラジオから流れるエルヴィスやリトル・リチャードに熱狂しながらも、国内のバンドはまだ模索中で、レコード会社は新人グループの売り出しに慎重だった。
そんな中、ドイツのハンブルクで、トニー・シェリダンのバックバンドとして「マイ・ボニー」を録音したビートルズは特別な光を放っていた。
自分の店に来た数人の客によって心を動かされたエプスタインは、ビートルズが演奏しているライブハウス「キャバーンクラブ」へ出向いた。そして、たちまち彼らに心を奪われたエプスタインは、マネージャーに名乗り出る。衣装やステージの振る舞いに至るまで指導を施し、メンバーたちはリヴァプールとハンブルクのライブで演奏技術とオリジナル曲のレパートリーを磨いた。
1962年、ビートルズはEMI傘下のパーロフォン・レコードと契約し、初のシングル「ラヴ・ミー・ドゥ」でデビューする。その瑞々しいエネルギーはリスナーの心を捉え、ラジオや雑誌で全国的に注目を集めた。こうして、ほんの小さな偶然をきっかけとして、四人の青年と一人のマネージャーによる伝説的な物語が幕を開けたのだった。