…to be continued
サタデー・ナイトの熱狂 ― ディスコ・サウンドの隆盛(1975‐79年)
1970年代後半、ニューヨークのダンス・フロアでは「踊ること」を音楽の中心に据えるムーブメントが起きていた。日本でも大ブームとなったディスコだ。
ディスコは1960年代末から1970年代初頭にかけて、ニューヨークのゲイ・コミュニティや黒人、ラテン系コミュニティのクラブ文化の中で育まれたが、その熱狂を世界規模の現象へと押し上げたのが、1977年の映画『サタデー・ナイト・フィーバー』とビージーズだった。
もともとは美しいハーモニーを持ち味とするポップ・グループだったビージーズは、『サタデー・ナイト・フィーバー』のサウンドトラックによって新たな時代の顔となった。そして、映画の中でジョン・トラボルタが踊る姿は「週末の夜だけは誰もがスターになれる」という夢そのものだった。
特に大ヒットとなった「ステイン・アライヴ」の跳ねるようなビート、ファルセット・ボーカル、洗練されたグルーヴは、ディスコを一過性の流行ではなく、ディスコを世界的な大衆音楽へと押し上げた。
ディスコは、享楽とユーモアを全開にする開放的な音楽でもあった。ヴィレッジ・ピープルは、警官、カウボーイ、建設作業員といった誇張されたキャラクターに扮し、「Y.M.C.A.」を世界的ヒットへと押し上げる。誰もが真似できる振り付けと底抜けに明るいメロディ。その背後には、ゲイ・カルチャーを含む当時のマイノリティ文化の存在も関わっていた。
だが、ディスコの本当の革新は、単なる華やかさだけではなかった。ニューヨークのクラブ・カルチャーを支えていたDJたちは、観客を踊らせ続けるために、曲をつなぎ、長く引き延ばし、フロア全体の流れを作り上げていた。そこで重要になったのが、繰り返されるビートとグルーヴだった。
その発想を極限まで洗練させたのが、シックだ。切れ味鋭いカッティング・ギターと、うねるベース。代表曲「おしゃれフリーク」はシンプルな反復の中に圧倒的な高揚感を生み出し、後のヒップホップ、ハウス・ミュージックの基礎となるグルーヴを生み出した。
また、「グッド・タイムス」のベースラインは、シュガーヒル・ギャングの「ラッパーズ・ディライト」で、ほぼそのまま再現され、後にナイル・ロジャースらにも作曲クレジットが与えられた。これはヒップホップ誕生を象徴する出来事のひとつとなった。
そして、イタリア出身のプロデューサー、ジョルジオ・モロダーと、圧倒的な歌唱力を誇るドナ・サマーの出会いによって、ディスコは新たな進化を遂げた。
「アイ・フィール・ラヴ」で彼らは、シーケンサーによる電子的な反復を徹底的に推し進め、それまで生演奏主体だったダンス・ミュージックに新たな波を起こした。ブライアン・イーノはデヴィッド・ボウイに向かって「これが未来の音だ」と語ったと伝えられている。そして、その予言は、テクノやシンセポップの時代に現実のものとなっていった。
さらに日本では、細野晴臣が欧米のディスコ・サウンドに強い関心を寄せ、そのダンス・ミュージックとしての魅力と電子音楽の未来性を結びつけようとしていた。坂本龍一、高橋幸宏とともに結成したYMOには「踊れる電子音楽」という発想が確かに息づいていた。
しかし、ディスコの熱狂は長くは続かなかった。1979年、シカゴで起きた「ディスコ・デモリション・ナイト」では、大量のディスコ・レコードが球場で爆破されるという事件が発生する。表向きには「ディスコへの反発」とされたが、その背景には、人種や性的少数者への偏見が反映されていたと見る研究者もいる。
それでも、ディスコは単なる流行として終わったわけではなかった。クラブで生まれた反復するビートとグルーヴは、ヒップホップ、ハウス、テクノ、シンセポップへと受け継がれ、現代のダンス・ミュージックの礎となっていく。