電子音楽の大衆化(1974‐80年)

1970年代中期、シンセサイザーやシーケンサー、テープ・ループといった電子機器は、高価で扱いの難しい装置であり、そこから生み出される音楽は「未来的ではあるが、どこか人間味に欠ける特殊なもの」と見なされ、広く普及しているとは言えなかった。

しかし、そうした機械の響きの中に新しい美しさを見いだし、「未来の音楽」を夢見た人々がいた。彼らの実験は、やがてテクノやシンセポップへとつながり、ポピュラー音楽の風景そのものを書き換えていくことになる。

その潮流を象徴する存在が、ドイツのクラフトワークだった。無表情なスーツ姿でステージに立ち、淡々と電子音を積み重ねる彼らの姿は、それまでのロック・スター像とはあまりにもかけ離れていた。そして、「アウトバーン」で高速道路を走る感覚を電子音で描き出した彼らは、現代文明そのものを音楽の題材にした。

「Autobahn」Kraftwerk

同じくドイツでは、タンジェリン・ドリームが、より幻想的で宇宙的な電子音楽を追求していた。長尺のシンセサイザーによる音の流れは、まるで夢の中を漂うような音響空間を作り上げ、『Phaedra』や『Rubycon』に代表される彼らの作品は、後のアンビエントやニューエイジ、さらには映画音楽にも大きな影響を及ぼしていくこととなった。

「Phaedra」Tangerine Dream

フランスでは、ジャン=ミッシェル・ジャールが電子音楽をより大衆的な存在へと押し広げていた。彼は、1976年のアルバム『幻想惑星(Oxygène)』で世界的な成功を収め、実験音楽と思われていたシンセサイザー主体の作品に対する大衆の認識を新たなものにした。

彼の音楽はクラフトワークのような機械的なイメージとは異なり、宇宙や自然への憧れを湛えた旋律によって「電子音楽は冷たい」という固定観念をやわらげていった。

「Oxygène Part IV」Jean-Michel Jarre

また、ロキシー・ミュージック脱退後のブライアン・イーノは「アンビエント・ミュージック(環境音楽)」を提唱し、音楽を鑑賞対象だけではなく「その場の空気を形づくるもの」としてとらえ直した。

「1/1」Brian Eno

一方で、機械の響きをより鋭く、挑発的な表現へと変えたのが、ニューヨークの二人組、スーサイドだった。切迫したヴォーカル、簡素なリズムマシンとシンセサイザー。たったそれだけの編成で生み出された音楽は、パンクの荒々しさと電子音楽の反復性を融合させていた。

1977年のデビュー作は商業的にはほとんど成功しなかったが、その無機質なビートと剥き出しの衝動は、後のシンセパンクやインダストリアル、ニューウェイヴへと受け継がれていく。

「Ghost Rider」Suicide

そして、日本でもまた、独自の電子音楽革命が始まっていた。細野晴臣、高橋幸宏、坂本龍一によって結成されたイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)は、クラフトワークからの影響を受けながらも、それを単なる模倣には終わらせなかった。

アーケードゲームの電子音やCMのジングル、沖縄音楽、エキゾティシズム、そしてディスコの高揚感。細野晴臣が様々な音楽や文化から吸収してきた要素を取り込みながら、彼らは独自の「テクノ・ポップ」を創り上げていく。

「Rydeen」YMO

「テクノ」という言葉が日本で一般化した背景に、YMOの存在が大きく関わっていたことは確かだろう。YMOの魅力は、その精密さと遊び心が同居していたことにある。

「ライディーン」に象徴されるように、打ち込まれた電子音は驚くほど親しみやすく、「未来」は冷たく無機質なものではなく、人間のユーモアや温もりを宿したものにもなり得るというメッセージも含んでいた。

そして、その未来の響きに最も敏感に反応したのは、イギリスの若者たちだった。パンクが「誰にでもできる」と叫んだあと、彼らはギターではなくキーボードのスイッチを入れた。その過渡期を象徴する存在のひとつが、ジョン・フォックス率いるウルトラヴォックスだった。

1977年の「Hiroshima Mon Amour」は、耽美的なメロディと電子音が交差する先鋭的な作品だった。そこには、後に訪れるニュー・ロマンティックやシンセポップ黄金時代の萌芽が確かに刻まれていた。

「Hiroshima Mon Amour」Ultravox

こうして1970年代末、電子音楽は実験室の中だけのものではなくなっていった。シンセサイザーやコンピュータは、人間の創造力を制限するものではなく、これまでにない音の風景を切り開くための新しい道具となり始めていた。そうした発想は、イギリスの若い世代に強い衝撃を与え、さらに新たな潮流を生み出していくことになる。

…to be continued