嵐を呼ぶロックンロール(1955年)
メンフィスでエルヴィス・プレスリーが「ザッツ・オール・ライト」を録音した1954年。ブルースとカントリーの境界を飛び越えた新しい音楽が、白人の若者たちの心を揺さぶった。しかし、その波を、さらにアメリカ全土を席巻する大きなムーブメントへと発展させたのは、二人の黒人青年だった。
1955年、ニューオーリンズのJ&Mスタジオでリトル・リチャードが「トゥッティ・フルッティ」を録音したとき、スタジオの空気は一瞬にして変わった。 「彼のエネルギーはスタジオ全体に伝播し、まるで雷のようだった」――録音エンジニアのコジモ・マタッサは後にそう語っている。プロデューサーのバンプス・ブラックウェルも「セッションが停滞していたところ、リチャードが突然ピアノを叩きながら歌い始め、スタジオの雰囲気が一変した」と回想しており、サックス奏者のリー・アレンも「彼の歌声はまるで爆発のようで、我々全員がそのエネルギーに引き込まれた」と証言している。
また、シカゴで活動していたチャック・ベリーが1955年に録音した「メイベリーン」は、若者たちの恋や車をテーマにした歌詞と、弾けるようなギターリフで一気に注目を集めた。カントリーの物語性とブルースのリズムを巧みに組み合わせたそのサウンドは、若者たちにとって新しい共感の形となり、ロックンロールを全国的な現象に押し上げる原動力となった。
「ロケット88」の偶然の歪みやエルヴィスの躍動する歌声、そして、チャック・ベリーのギターリフとリトル・リチャードのシャウトによって、ロックンロールの波は全国を駆け巡る嵐となった。
こうして、1950年代半ば、ロックンロールはアメリカの街角やラジオ、ダンスホールに鳴り響き、若者たちの生活の一部となっていった。そして、その音はやがて国境を越え、世界中の若者たちの胸を打つことになる。