…to be continued
バブルガム・ポップの隆盛(1966‐70年)
1960年代後半、ビートルズやジミ・ヘンドリックスがロックを芸術へと押し上げる一方、アメリカで誕生したのが、より軽快で親しみやすい"バブルガム・ポップ"だった。「子ども向けのお菓子のように甘く軽い」と揶揄されたその音楽は、やがて、幅広い世代が楽しめるポップ・ミュージックとして世界を席巻していった。
その前史として、モンキーズの存在がある。1966年、アメリカのテレビネットワークNBCがビートルズ映画の成功をヒントに「若者たちのバンドが主演する音楽コメディ番組」を企画し、オーディションで選ばれた4人によって結成されたのがモンキーズだった。
初期はスタジオ・ミュージシャンが演奏し、彼らは主に歌と演技を担当していたが「恋の終列車(1966)」「アイム・ア・ビリーバー(1966)」が全米1位のヒットとなった。
このモンキーズの手法をさらに徹底させたのが、プロデューサーのジェリー・カセネットとジェフ・カッツだった。彼らが世に送り出した1910フルーツガム・カンパニーやオハイオ・エクスプレスは、当初こそ実在のバンドを母体にしていたが、やがて固定メンバーのいない"ブランド名"となった。録音には職業ミュージシャンが動員され、ツアーでは別メンバーが登場する――いわば、緻密に設計された"商品"だった。
一方、同じくカセネット=カッツのもとにいたレモン・パイパーズは、オハイオ州出身のバンドであり、「グリーン・タンバリン」(1967)が全米1位を獲得。実在のロック・グループによる演奏でありながら、バブルガム・ポップ初期を代表するヒットとなった。
そして1969年、アニメの架空バンド、アーチーズが「シュガー・シュガー」で全米1位を獲得。アニメのキャラクターが歌い、スタジオ・ミュージシャンが演奏するという完全に人工的なアーチーズは、後年のヴァーチャル・アイドルの原型とも言える。
やがて、こうしたバブルガム・ポップ的なサウンドは世界に広がり、各国で独自の発展を見せた。全米1位を獲得したオランダのショッキング・ブルー「ヴィーナス」(1969)も、バブルガム・ポップを思わせる明快な曲調でありながら、ギター中心のハードな演奏と女性ボーカルの力強さを加え、新たな魅力を生み出した。
また、イギリスのクリスティー「イエローリバー」(1970)、マーマレード「リフレクションズ・オブ・マイ・ライフ」(1969)なども、親しみやすいメロディと哀愁を帯びた叙情性を兼ね備え、広く人気を得た。
カナダでは、マッシュマッカーンが「霧の中の二人」(1970)で国際的な成功を収めた。オルガンを主体にしたサウンドに、キャッチーなメロディを乗せた彼らの音楽は、バブルガム・ポップ的な親しみやすさに、サイケデリック、アートロックの感覚を取り込んでいた。
しかし、こうした明るさは、アメリカのベトナム戦争やキング牧師暗殺といった重い現実と同時代にあった。評論家レスター・バングスはのちに、バブルガム・ポップを「愚かで、純粋で、そして必要な夢」と評している。そして、この"人工的なポップ"の精神は、のちのロックにも受け継がれていった。
グラムロックの代表的な存在となったマーク・ボラン(T・レックス)は、インタビューで「1910フルーツガム・カンパニーのような単純なポップソングが好きだった」と語り、彼のプロデューサー、トニー・ヴィスコンティも「ボランは、バブルガムのように誰もが口ずさめるメロディこそがポップの核心だと考えていた」と回想している。
また、パンク・ロックの代表バンド、ラモーンズのジョーイ・ラモーンは、1970年代のインタビューで「俺たちはビーチ・ボーイズと1910フルーツガム・カンパニーの中間のようなもの」と語っている。
こうして、1960年代末期にバブルガム・ポップが提示した人工的な夢は、人々の不安な心情の反映であるとともに、次世代のロックを育む土壌にもなっていった。