…to be continued
南部ルーツミュージックと白人ロックの交差(1968年)
1968年の春、ニューヨーク州ウッドストック近郊の家"ビッグ・ピンク"の地下室。ザ・バンドのメンバーたちは床に腰を下ろし、ディランから譲り受けたギターやドラムを鳴らしていた。後に、リヴォン・ヘルムは当時のことを、こう振り返っている。
「ステージの虚飾は考えなかった。仲間と音を合わせること、それだけだった」
やがて、その音は「ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク」として世界へ届くことになった。収録曲「胸の痛み(アイ・シャル・ビー・リリースド)」や「胸いっぱいの涙(ティアーズ・オブ・レイジ)」には、北部の静かな納屋で生まれた土の匂いがそのままに封じ込められていた。
その頃、アラバマ州マッスル・ショールズのフェイム・スタジオでは、アレサ・フランクリンが「愛の讃歌(アイ・ネヴァー・ラヴド・ア・マン)」を録音し、ブッカーT&ザ・MG'sのリズムが自然に混ざり合った。
1968年末、ウィルソン・ピケットは「ヘイ・ジュード」をカヴァーし録音した。マッスル・ショールズのスタジオには、黒人シンガーと白人ミュージシャンが集まっていた。ピケットは後にこう語っている。
「あの白人の連中は、黒人よりもソウルフルだった。グルーヴの中では、誰が何色の肌かなんて関係なかった」
1969年、デラニー&ボニーは南部のサウンドを吸収したアルバム「Home」を発表。このツアーに参加したエリック・クラプトンは、後にこう語っている。
「デラニーとボニーのバンドに加わって、初めて"バンドで呼吸する"ということを学んだ。みんなが一つの生き物みたいに動くんだ」
その後、クラプトンは南部のミュージシャンたちと出会い、「彼らは頭ではなく体で弾いていた」とも述べている。やがて彼はデュアン・オールマンと出会い、南部のブルースやスワンプ・サウンドを実際の演奏で確かめることになる。
ウッドストック近郊の地下室の響きと、南部スタジオの熱気――それらは、やがてオールマン・ブラザーズ・バンドやリトル・フィート、イーグルスなどに受け継がれ、アメリカの大地に根ざした新しいロックの流れを生み出していく。