“マージービート”の波(1962‐64年)
1960年代初頭、アメリカではエルヴィス・プレスリーの入隊やバディ・ホリーの事故死などを経て、50年代のロックンロールの熱狂が一時的に沈静化していた。その頃、海を隔てたイギリスでは、アメリカのロックンロールやR&Bに刺激を受けた若者たちが次々とバンドを結成していた。港を通じて輸入盤がいち早く手に入った街では、労働者階級の青年たちがギターを手に、ガレージやクラブで演奏を重ねていた。
その中心となったのが、リヴァプールのキャヴァーン・クラブを拠点に活動していたビートルズだった。彼らの明るく洗練されたサウンドはリヴァプールの若者文化を象徴し、「マージービート」と呼ばれる独自の音楽潮流を生み出すことになる。この名称は、リヴァプールを流れるマージー川と、地元の音楽誌「Mersey Beat」に由来している(当時、日本では「リバプールサウンド」と呼ばれていた)。
マージービートの代表的バンドとしてビートルズと並び称されたのは、同じリヴァプール出身のジェリー・アンド・ザ・ペースメイカーズ。彼らの「ユール・ネバー・ウォーク・アロン」は、ミュージカル「回転木馬」の劇中歌だったが、情感豊かなカヴァーによって国民的ヒットとなる。 その後、この曲はリヴァプールFCの公式アンセムとして受け継がれ、スタジアムのサポーターが大合唱する“リヴァプールの魂”の象徴となった。マージービートが単なる音楽潮流を越えて、地域の誇りや共同体意識を育てた象徴的な出来事と言えるだろう。
同じくリヴァプール出身のザ・サーチャーズもマージービートの重要な担い手だった。彼らは「スウィーツ・フォー・マイ・スウィート」(1963)、「ニードルズ・アンド・ピンズ」(1964)といったヒットで、清涼感あるコーラスと軽快なギターサウンドを聴かせた。
また、ザ・スウィンギング・ブルー・ジーンズの「ヒッピー・ヒッピー・シェイク」も、リヴァプールらしい明るいビート感と勢いを象徴している。こうしたバンド群は、アメリカ音楽の模倣にとどまらず、英国の大衆的ポップ感覚を加味して独自のスタイルを築き上げた。
リヴァプールを中心に起こったマージービートの波は、若者たちに新しいロックの風を吹き込み、その熱はイギリス全土へと広がっていった。北部マンチェスターではザ・ホリーズが「ステイ」(1963)や「ジャスト・ワン・ルック」(1964)で美しいハーモニーを聴かせ、マージービートと並行して英国的コーラス・ポップの流れを作った。
その一方、ロンドンではより黒く、熱いブルースのうねりが始まっていた。アレクシス・コーナー率いるブルース・インコーポレイテッドは、アメリカ南部のブルースを英国風に再解釈し、後年多くのブルース・ロック・ミュージシャンを育てた。彼のバンドを中心とするセッションには、ブライアン・ジョーンズ、ミック・ジャガー、キース・リチャーズらも顔を出しており、彼らの交流が後にローリング・ストーンズ結成のきっかけとなった。
さらに、1963年にジョン・メイオールが結成したブルースブレイカーズは、後の英国ブルース・ロックの重要な源流となる。そこからはエリック・クラプトンやジャック・ブルース(クリーム)、ピーター・グリーン、ミック・フリートウッド、ジョン・マクヴィー(フリートウッド・マック)、ミック・テイラー(ローリング・ストーンズ)といった名手たちが輩出されていく。この動きは1960年代半ば以降、ブリティッシュ・ブルースの黄金期へと発展していくことになる。
こうして1964年までに、英国ロックは二つの潮流――リヴァプールを中心とするポップで開放的なマージービートと、ロンドンの黒いブルース・リヴァイバル――を形成した。
港町の若者たちが生み出した素朴なビートと、首都のクラブで磨かれた熱いブルース。この二つのエネルギーが融合し、世界のロックを変える「ブリティッシュ・インベイジョン」の導火線に火が点いたのだった。