1971年:若者たちが自分の言葉で歌い始めた時代

1971年、日本の音楽界では歌謡曲が圧倒的な人気を保っていた。テレビでは演歌や歌謡曲のスターたちが活躍し、ヒット曲はお茶の間の共通言語だった。

この年、日本レコード大賞を受賞したのは尾崎紀世彦「また逢う日まで」。ソウルミュージックの影響を感じさせるスケールの大きな歌唱と洗練されたサウンドは、それまでの歌謡曲とは違った新鮮な魅力に溢れていた。

「また逢う日まで」尾崎紀世彦

また、小柳ルミ子「わたしの城下町」、欧陽菲菲「雨の御堂筋」、平浩二「バス・ストップ」など、演歌、ムード歌謡、青春歌謡といった多様な歌謡曲も広く親しまれていた。

「わたしの城下町」小柳ルミ子
「雨の御堂筋」欧陽菲菲
「バス・ストップ」平浩二

しかし、その一方で、若者たちの間では、新たな音楽文化が広がり始めていた。それが“フォークブーム”だ。学校帰りの教室、喫茶店、公園、学生寮――。若者たちはこぞってアコースティックギターを手にし、自分たちで歌を歌い始めた。

その背景には、60年代末の学生運動や反戦フォークの流れもあった。しかし71年頃になると、フォークは政治的メッセージだけではなく、“若者自身の日常”を表現する音楽へと変わり始めていた。

「あの素晴しい愛をもう一度」加藤和彦と北山修
「花嫁」はしだのりひことクライマックス
「戦争を知らない子供たち」ジローズ

そして、この変化を象徴する出来事が起きる。上條恒彦と六文銭による「出発の歌 ―失なわれた時を求めて―」が、世界歌謡祭でグランプリを受賞し、大ヒットとなった。

「出発の歌 ―失なわれた時を求めて―」上條恒彦+六文銭

六文銭の中心メンバーだった小室等らは、アメリカのプロテストソングをそのまま模倣するのではなく、日本の現実を日本人自身の言葉で歌う必要性を感じていたという。「出発の歌」が多くの人々の心をとらえたのも、そこに政治的スローガンではなく、時代の閉塞の中でも前へ進もうとする、ごく普通の人々の思いが込められていたからだろう。

フォークが若者の日常を歌い始めた頃、ロックの世界でも同じ問いに向き合うグループが現れていた。細野晴臣、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂による「はっぴいえんど」は、この年、アルバム『風街ろまん』を発表する。

「風をあつめて」はっぴいえんど

彼らは、東京の街並みや季節の移ろい、若者たちの日常の情景を、日本語ならではの情緒や生活感覚を含んだ言葉で描き出した。

それまでのロックが遠い外国のものだった時代に、『風街ろまん』は“自分たちの暮らし”をロックの題材にしてみせた。その感覚は、後のニューミュージックやシティ・ポップへとつながる重要な源流のひとつとなった。

この頃から、若者たちは海外の音楽に憧れるだけではなく、自分たちの街や日常を日本語で歌い始め、少しずつ「自分たちの音楽」を創ろうとしていたのだった。

しかし、日本のロックは、まだ一部の若者文化に過ぎなかった。フラワー・トラヴェリン・バンドの「SATORI」のような海外志向のハードロックや、村八分に代表されるアンダーグラウンドなロックは、熱心なファンの支持を集めながらも、一般のお茶の間からはまだ遠い存在だった。

「Satori Part I」Flower Travellin' Band
「あッ!!」村八分(73年LIVE)

次回は1970年にさかのぼる。「出発の歌」が人々の心を動かし、『風街ろまん』が街の風景をロックの題材にする以前、若者たちは「何を、どんな言葉で歌うべきなのか」という問いを抱いていた、その出発点を探ってみたい。

…to be continued