…to be continued
1970年:「ふぉーく・ろっく」と呼ばれた時代
1970年、日本は高度経済成長のまっただ中にあった。3月には大阪で日本万国博覧会(大阪万博)が開幕し、「人類の進歩と調和」を掲げた未来への期待に、日本中が沸き立っていた。カラーテレビは急速に普及し、人々の暮らしは豊かさを増していく。音楽もまた、その時代の熱気を映し出していた。
1970年のヒットチャートでは、菅原洋一「今日でお別れ」や藤圭子「圭子の夢は夜ひらく」といった歌謡曲が圧倒的な人気を誇っていた。
その一方で、渚ゆう子「京都の恋」はベンチャーズによるエレキ・サウンドを大胆に取り入れてヒットを記録。グループ・サウンズの熱狂は去っていたが、その音楽的な影響は形を変えて日本のポップスに生き続けていた。
若者たちの音楽も大きく姿を変えようとしていた。1960年代末、学生運動や反戦運動を背景に広がったフォークは、社会への異議申し立てを歌う音楽として支持を集めていたが1970年になると、その熱狂は次第に遠のき始める。
革命や変革を語った季節のあとで、若者たちの音楽は、政治的なメッセージだけではない広がりを見せ始めた。前年の1969年には、ヤマハ主催の「ライト・ミュージック・コンテスト(LMC)」がスタートし、自作曲や独自のアレンジによる演奏を競うアマチュアたちの新たな発表の場となっていた。
LMCで注目を集めたグループのひとつが赤い鳥だ。彼らが歌った「竹田の子守唄」は、京都に伝わる子守唄をもとにしていた。社会の周縁に置かれた人々の哀しみや暮らしの記憶に耳を澄ませる歌声は、フォークが「時代を告発する歌」から「人々の生活や心の機微を見つめる歌」へと広がっていく時代の変化を感じさせた。
後にこのコンテストは「ポピュラーソング・コンテスト(ポプコン)」へと発展し、中島みゆきや世良公則&ツイスト、CHAGE and ASKAらを送り出すことになる。しかし1970年の時点では、そうした音楽は、まだ「ニューミュージック」と呼ばれる以前の、名前の定まらない若者たちの表現だった。
そして1970年9月、東京・日比谷野外音楽堂で『日本語のふぉーくとろっくのコンサート』が開催される。このタイトルは、今となっては不思議に聞こえるかもしれない。「フォーク」と「ロック」をわざわざ並べ、「ふぉーく」「ろっく」とひらがなで表記する。そこには、まだ新しい音楽の呼び名すら定まっていなかった時代の空気が漂っている。
出演したのは、岡林信康や高田渡、遠藤賢司、五つの赤い風船、六文銭、そしてデビューしたばかりのはっぴいえんどなど。フォークなのか、ロックなのか。その境界はまだ曖昧だったが、共通していたのは「自分たちの言葉で、自分たちの時代を歌いたい」という思いだった。
遠藤賢司の「カレーライス」は、一見すると恋人との日常を歌った素朴なフォークソングに聞こえる。しかし、「誰かがお腹を切っちゃって」という一節は、1970年の三島由紀夫の割腹自殺の衝撃を思い起こさせる。
革命や変革を熱く語った季節が過ぎ、恋人とつつましく同棲し、テレビのニュースを眺めながらカレーライスを食べている──そんな自分たちの姿を、肯定とも自嘲ともつかない眼差しで見つめた歌でもあった。
そして、この年、日本のロック史において後に決定的な意味を持つ一枚のアルバムが発売された。はっぴいえんどのデビューアルバム『はっぴいえんど』だ。
だが、当時は「ロックは英語で歌うものではないのか」「日本語のイントネーションではロックにならないのではないか」といった疑問や批判が、ごく当たり前のように存在していた。
グループ・サウンズの時代を経て、本格的なロックとは欧米のものを忠実に再現することだと考える人も少なくなかった。そんな中、彼らの試みは「日本語でロックは成立するのか」という問いとして受け止められていくことになる。
ただ、この時点で答えはまだ出ておらず、彼ら自身も試行錯誤の途中にいた。しかし、その問いがあったからこそ、翌年の『風街ろまん』で彼らは、日本の街の風景や若者たちの日常をロックとして歌うという新しい表現へたどり着くことになる。
1970年の日本の音楽界では、歌謡曲が圧倒的な主役ではあったが、その舞台裏では後にフォーク、ロック、ニューミュージックへと枝分かれしていく70年代の豊かな音楽文化が育まれつつあった。
次回はさらに1969年へとさかのぼる。グループ・サウンズの熱狂の陰で、若者たちは既成の価値観そのものに疑問を抱き始めていた。激動の60年代最後の一年、70年代の音楽を生み出す原風景がどのようなものだったか、その様子を探っていきたい。