…to be continued
1975年:セルフプロデュース時代の幕開け
1975年の音楽界を大きく揺るがしたのは「フォーライフ・レコード」の設立だった。小室等、吉田拓郎、井上陽水、泉谷しげるというフォークの中心人物たちが、既存のレコード会社から距離を取り、自分たちの作品を自分たちで扱うために立ち上げたレーベルだ。
当時の業界では、制作から宣伝、流通までをレコード会社が主導するのが当たり前だった。その中で、歌い手自身がレーベル運営に関わるという試みは異例だった。
実際、この立ち上げにあたっては、レコードの製造や流通をどう確保するかといった現実的な問題に直面するなど、決して順風満帆な船出ではなかった。
それでも、作り手が作品の扱い方にまで関わろうとしたこの動きは、その後に広がっていく自主制作やインディペンデントな活動のあり方を先取りしていた、と見ることもできる。
この時期、歌謡曲とフォークの関係にも変化が見え始めた。その象徴的な曲が布施明の「シクラメンのかほり」だ。作詞・作曲はフォーク出身の小椋佳。この曲が日本レコード大賞を受賞したことで、ソングライターと歌い手の組み合わせに新しい広がりが生まれた。
さらに、吉田拓郎がかまやつひろしに提供した「我が良き友よ」の大ヒットは、フォーク系ミュージシャンが歌謡曲市場に関わっていく動きとして注目を集めた。
この時代のヒット曲は、まず視覚によって浸透し、その後にレコードとして定着していく——それが基本的な流れであり、オーディション番組『スター誕生!』からは、すでに人気を確立していた森昌子に引き続き、桜田淳子、山口百恵、岩崎宏美らが登場していた。
その一方で、テレビに依存しないヒットも現れていた。荒井由実がバンバンに提供した「『いちご白書』をもう一度」、風「22才の別れ」やイルカ「なごり雪」(両曲とも原曲はかぐや姫)は、リスナーからのリクエストによるラジオや有線放送で徐々に広がり、さらに日常的な口コミを通じて大ヒットへと結び付いた。
こうした動きと並行して「ヤマハポピュラーソングコンテスト(通称:ポプコン)」が力を持ち始めていた。この年は、中島みゆきが「時代」でグランプリを獲得しており、彼女は後年「自分で作って、自分で歌うという形が、そのまま世の中に出ていく場だった」とポプコンを振り返っている。
また、ポプコン出場を足がかりに活動の場を広げた小坂恭子も「想い出まくら」を発表し、この年大ヒットを記録。さらに、同年の秋に優秀曲賞を獲得した因幡晃の「わかって下さい」は、翌年のヒットへとつながっていった。
1975年は、フォーライフの設立に象徴されるように、制作の現場でも、ヒットの生まれ方でも、歌い手とソングライターの関係が少しずつ変わり始めていた。この変化は、翌年以降の荒井由実の躍進、バンド勢の台頭などへとつながっていく。
そして、この年には山下達郎や大貫妙子が在籍したシュガー・ベイブが、大瀧詠一の立ち上げたナイアガラ・レーベルからアルバム『SONGS』をリリースしている。セールス的な成功は収められなかったが、洋楽的なポップスを日本語に落とし込み、洗練されたサウンドは、数十年後の今、世界中で愛されるシティ・ポップの原点となっている。
作り手が自らの意志で動き出し、新しい感性が芽吹いた1975年。しかし、そうした流れの重要な起点は、実はこの前年に現れていた。ひとりのシンガーソングライターによるアルバムが異例の大成功を収め、その一方で、フォーク系シンガーソングライターが全く異なるジャンルの歌い手に楽曲を提供し、大ヒットを記録した。次回は1974年にさかのぼり、それらの周辺を探っていく。