…to be continued
パンクの爆発 ― 怒りとユーモア、「DIY」精神(1977年)
1970年代後半、ロックはかつてないほど巨大なビジネスになっていた。完璧な録音技術で磨き上げられ、豪華なスタジアムで披露されるその姿は、確かに美しかったが、かつて不良たちが街角でかき鳴らしていたはずの音楽が、いつの間にか「高尚な芸術」「大規模なエンタテインメント」になってしまったような側面もあった。
1976年に胎動し、1977年に社会現象として爆発したパンク・ロック。それは、大人たちの手に渡ってしまったロックを、再び自分たちの手に奪還しようとする、切実な「原点回帰」だったと言えるかも知れない。
怒りとユーモア、そして日常の奪還。その中心にいたのはセックス・ピストルズだ。女王即位25周年の祝祭を切り裂いた「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」。彼らが叩きつけたのは、暴力的なまでのエネルギーと、英国社会への冷笑的なユーモアだった。ジョニー・ロットンの吐き捨てるような歌声は、ロックとは鑑賞するものではなく、自らの衝動を叩きつける行為だと叫んでいた。
ピストルズが放った火を、さらに燃え上がらせたのがザ・クラッシュだった。デビュー曲「白い暴動」で彼らが叫んだのは、漠然とした反抗ではなく、人種や階級の不平等に対する怒りだった。パンクの熱量を保ちながらレゲエなどを飲み込んでいく柔軟さは、パンクが決して一過性のブームではないことを証明してみせた。
しかし、当時のロンドンに響き渡っていたのは怒りだけではない。ピストルズよりも早く、英国パンク初のシングル「ニュー・ローズ」を叩きつけたザ・ダムドは、おどろおどろしい風貌とは裏腹に、疾走感あふれるサウンドで「ただ暴れる楽しさ」を教えてくれた。
また、マンチェスターから現れたバズコックスは、性的欲望や依存をブラックユーモアを交えて描いた「オーガズム・アディクト」のような過激な題材を扱いながらも、キャッチーなメロディを奏で、パンクが「誰にでも開かれた、最高に刺激的なポップ・ミュージック」であることを示していた。
さらに、後に「モッズ・リバイバル」の旗手となるザ・ジャムも、この年はパンクの熱波の中にいた。デビュー曲「イン・ザ・シティ」で見せた、スーツに身を包みながらも荒々しく掻き鳴らすモッズ直系の荒々しいR&Bのビート。それは、1960年代のビート・グループが持っていたスリリングな衝動の現代版だった。
そして、このムーブメントが残した最大の遺産は、「DIY(Do It Yourself)」という精神だ。バズコックスが自主制作で発表したEP『スパイラル・スクラッチ』が象徴するように、レコード会社に頼らなくても、自分たちでシングルや、ファンジン(「fan(ファン)」+「magazine(雑誌)」が語源)を作り、服を切り裂いて意思表示をする。巨大なシステムに組み込まれずとも、自分たちの手で表現は作れる――この力強い肯定こそ、パンクが遺した最も価値あるメッセージとなった。
1977年の爆発はあまりに激しく、初期の「破壊そのものを目的化したパンク」は短命だった。だが、彼らが既存の業界を徹底的に揺さぶったことで、その隙間からニュー・ウェイヴやポストパンク、インディ・ロックといった新しい芽が次々と吹き出した。
「誰にでもできる」という一見無謀な肯定は、ロックを再び生身の人間のもとへと引き戻した。パンクがもたらした破壊と創造。それは、ロックが永遠に若々しく、そして「危なっかしい音楽」であり続けるために避けては通れない、痛快な脱皮だった。