…to be continued
1992年:不況の中で芽吹いた新しいサウンド
1992年、バブル経済が崩壊し、社会の空気が冷え込み始めた。人々の意識は「自分にとって本当に価値のあるもの」を求める方向へと変わっていく。音楽シーンもその影響を受け、きらびやかなヒット曲の陰で、少しずつ新しい流れが現れ始めていた。
この年のヒットチャートは、DREAMS COME TRUE「決戦は金曜日」、中山美穂&WANDS「世界中の誰よりきっと」など、タイアップに関わる曲で賑わっていた。また、浜田省吾「悲しみは雪のように」は、ドラマのヒットが旧曲を掘り起こす現象の先駆けとなった。
一方、FMネットワークの全国的な広がりや、音楽専門チャンネルの登場など、新しいメディアが発展しようとしていた。1989年に開局したスペースシャワーTVは、まだCS受信機を持つ家庭が限られていたものの、地方のインディーズやライブシーンを映像で紹介する先駆けとして、多くの若者たちの関心を集めるようになった。
札幌では、のちに全国的にブレイクするJUDY AND MARYが活動を開始。ライブでは、のちの代表曲「POWER OF LOVE」(シングルの正式リリースは1993年)を披露し、地元の若者の熱を集めていた。
また、沖縄からはTHE BOOMが「島唄」で注目を集める。南国の旋律と祈りの歌詞を重ね合わせたこの曲は、翌年にかけて大ヒットし、ポップスとして地方文化を発信する流れを作り出した。
関西では、ウルフルズが「やぶれかぶれ」でインディーズデビュー。泥臭く温かなサウンドは、都会的に洗練されたサウンドとは異なる魅力を発散した。
名古屋では、翌1993年に「FOR DEAR」でメジャーデビューする黒夢が、インディーズでの活動を本格化。 "名古屋系"と呼ばれる耽美で内省的なロックの先駆けとなった。
また、渋谷のクラブカルチャーを中心に、後に「渋谷系」と呼ばれるムーブメントが起こり始める。ピチカート・ファイヴや、翌年に「接吻Kiss」をヒットさせるオリジナル・ラヴなど、海外のポップスを軽やかに取り入れたサウンドが、カルチャー誌やクラブを通じて都市の若者文化に浸透していった。
1992年は、王道のJ-POPがピークを迎えつつ、地方・インディーズ・クラブカルチャーといった新しい芽も育ちつつあった。
そして、さらにこの年、音楽の楽しみ方を大きく変える新しい技術「通信カラオケ」が登場した。電話回線を使って最新の曲データを配信する仕組みは、全国各地で同時に新曲を歌えるという画期的なもので、翌年以降、急速に普及していく。この技術革新は、J-POP時代の基盤となる「参加型の音楽文化」を生み出す第一歩だった。
次回は1991年にさかのぼり、バブル景気の熱気の中で幕を開けた"タイアップ黄金時代"のポップスシーンを探っていく。